高梁川をとりまく人々の暮らし

高梁川上流の里

山々に降り注いだ雨が小川となり、谷を作り、川となり、交わって太くなり、最後は海へ注ぐ。人が現れる以前から、ずっと続いている「水の営み」。

高梁川111km。
そんな「水の営み」に寄り添い暮らした人々の営みの過去と現在を紹介したいと思います。

中国山地に覆われるように位置する新見市。千屋の花見山(1188m)を水源に南に向かって瀬戸内海に注ぐ高梁川。全長111kmに渡る高梁川の源流域に新見があることはとても意味があることだと筆者は思っております。

高梁川のデータ
[水系]一級水系
[区分]一級河川
[全長]111km
[流域面積]2,670k㎡
[水源]花見山(岡山・鳥取県境)
[水源の標高]1188m
[河口・合流先]瀬戸内海水島灘(岡山県)

高梁川源流域 新見市神郷の田んぼ

水に寄り添い暮らした昔の人の営み

古くから、源流域の綺麗な水は美味しいお米とお酒を作り、人々の暮らしを潤してくれました。

高梁川小川で遊ぶ子供小川で遊ぶ子供たち

機械がなかった時代、水の力は米を脱穀する水車として、また砂鉄採取の鉄穴流しなどに利用され、人々の暮らしに豊かさをもたらてくれました。

高梁川マス釣り大会にいみ子供マス釣り大会の様子

そうやってできあがった米や鉄、また漆や紙などの特産物は舟で下流に運ばれ、多くの人に山の恵みを行き渡らせてくれました。

高梁川新見ケレップ三日市船着き場跡(通称:ケレップ)

川の途中には船着場や蔵が立ち、市ができ、文化が生まれ、そして街ができあがりました。


高梁川のケレップ2河岸には鉄を扱う「鉄問屋」と一般商品を扱う「町荷問屋」が軒を連ねていたそうです。

 

「米」、「高瀬舟」、「たたら製鉄」、「漆」、「紙」など、今でも馴染みのある新見を象徴するワードですが、高梁川無しではあり得なかった産物です。

昔の人は「水の営み」をよく知っていて、敬い、親しむことで暮らしをより豊かなものにしてきたように思います。

 

近代化と暮らしの変化

19世紀にイギリスで始まった産業革命が、遠く離れた私たちの暮らしにも大きな影響を及ぼしました。
水力などの動力源が蒸気機関に代わり、また、蒸気機関を利用した蒸気船や鉄道が発明されたことにより、人々の交通や物資の運搬などは大きな変革を遂げました。また、20世紀に入ると、ドイツでガソリンエンジンが発明され、アメリカのエジソンは電球を改良して、電気を産業化しました。

この変革後の現代、高梁川をとりまく人々の暮らしはどうなったのでしょうか?

河口部には重工業地帯である水島コンビナートができました。雨が少ない時期に工業用水である高梁川が枯れないように上流部に水がめ用のダムが建造され、また、安定した電力供給の為に水力発電も行いました。

高梁川水島コンビナート高梁川河口部にある水島コンビナート

高度成長期を迎え、川を最大限に利用しコントロールした人々は、暮らしをより豊かなものへと発展させました。

夕暮れ時に 新見市街地を見渡す

農業においては機械化が進み、それまでの人手が必要でなくなりました。
当時の様子を知る人に聞くと、その頃は新見から水島コンビナートに向けて毎日、労働者用のバスが出ていたそうです。
そのうちに家族を伴って、高梁川下流域に移り住んだ人達もいることでしょう。

 

そして、ここで暮らす

今回の記事では、高梁川をとりまく人々の暮らしの過去と現在を私なりに噛み砕いて文章にしてみました。

自分はその当時にここで暮らしていたわけではないので確かなことはわかりませんが、こういった時代の変化が豊かさの価値観に偏りを生み、今の『都市と田舎』の関係が出来たように思います。

私が田舎に惹かれ、便利で何不自由ない都会の暮らしを止めて田舎に移住するに至ったのは、現代の田舎の暮らしに、水の営みに寄り添った昔のような暮らしがちょっとだけ残っているように感じたからです。

思うに自分は、そういった自然と織りなす暮らしが好きなんだと思います。

高梁川高瀬舟の難所阿哲台上より見下ろす高梁川。この辺りの井倉〜谷合〜広石が高瀬舟上り下りの難所であったようです。

時代の流れとは逆行した価値観かもしれませんが、私のように水のある里の風景を心に抱いている人が世の中には案外といるのではないでしょうか。

そういった方達にこの記事が響くと良いな。
高梁川源流域の暮らし、この後も続きます。

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